『死印』前日譚小説“花彦くん遭遇編”【1】 第4話 赤いのちょうだい?

エクスペリエンスから2017年6日1日発売予定のプレイステーション Vita用ソフト『死印(しいん)』。新機軸のホラーの前日譚を描く小説を、ファミ通ドットコム限定でお届けする(全15回・毎日掲載)。


“花彦くん遭遇編”【1】 第4話 赤いのちょうだい?

 閑散とした廊下は、校舎に入った直後よりも寒々としていた。
 あたりを支配する暗闇も一層不気味で、体中が恐怖で凝り固まっていく。図工室で見た血溜まりの光景が目に焼きついていて、一歩進むだけでも足が重かった。保健室に花彦くんがいたらと、最悪な想像だけが浮かんでしまう。
 僕は一度だけ頭を振り、嫌なイメージを消し去ろうと試みた。図工室の光景は何かの夢だったのかもしれない、恐怖が生みだした幻覚だったのかもしれないと、必死に思い込もうとした。けれど、あの生々しい感覚はなかなか脳裏から離れない。今でも、島田の断末魔の悲鳴が頭の中でこだましているようだった。
 それでも、僕は保健室へと向かう歩みを止めようとはしなかった。アイツへの怒りや憎しみ、そして母さんを救いたいという思いが僕を突き動かしているのだ。
 もちろん、恐怖は依然として体の中にわだかまっていた。五感すべてが鋭敏になっていて、物音一つだけでも肝が冷える。今も足の震えは止まらないけど、しかし睡眠薬だけは手に入れなければ……。
 「健くん、待って……!」
 後ろからかけられた声に、僕は振り返った。そこには、必死に怯えを抑え込んでいる佐智子の姿があった。あまりの恐ろしさに取り乱して憔悴していた彼女だったが、図工室を出てからは少し落ち着いたようで、今では僕の後ろをついて回って離れない。
 「大丈夫、ここにいるよ」
 僕はそう言って佐智子が近づいてくるのを待った。冷静さを装って口にしたつもりでも、僕の声は震えていた。
 佐智子は、びくびくとあたりをうかがいながら歩いている。恐怖に押しつぶされそうになるのを必死にこらえて、なんとか僕についていこうとしているのだ。
 僕は、この深夜の学校の中に漂っている得体の知れない妖気を、佐智子も感じ取っているのだなと思った。確かにこの場所には、生者の存在が許されないような雰囲気が漂っている。僕だって、できればこれ以上長居はしたくない。
 だから僕は、すぐ側まで近づいてきた佐智子の手をつかんだ。そしてしっかりと力強く握りしめてから、歩みを再開させた。

 保健室の前に辿りついたとき、僕は全身の毛が逆立つような異様な雰囲気を感じ取った。校舎内の他の場所とは違う、禍々しい空気――それは、明らかに保健室の中から漏れ出ていた。
 僕は勇気を振り絞り、保健室の扉についている四角いガラス窓からそっと中をのぞこうとした。その瞬間、気を強く保たなければ昏倒するような、まるで魂を吸い取られるような感覚が僕を襲った。思わずガラス窓から顔を離しかけるが、我慢して室内をのぞきこんだ。暗闇だけが目にうつって、中の様子はよくわからない。けれど、なぜだか部屋の中から何者かがこちらをうかがっているような気配が感じられた。
 僕は、いつの間にか自分の膝が笑い、足がガタガタと震えていることに気がついた。張り詰めた緊張感からか、口の中がひどく乾いている。佐智子とつないだ手には、びっしょりと汗がにじみ出していた。
 そのとき佐智子が、空いている方の手で僕の服の裾を引っ張った。
 「――だ、ダメ……!」
 佐智子はひどく怯えた様子で、声を震わせながらつぶやいた。そして何度も首を横に振る。彼女の充血した瞳には、得体の知れないものに対する怖れがありありと浮かんでいた。
 佐智子は何を感じとったのか。怯えをにじませた彼女の表情は、僕の中の恐怖を増長させた。
 それでも僕は、何とか自分の中の怯えを抑え込み、彼女の制止を振り切って保健室の扉へと近づいた。扉の鍵は壊れていてうまく噛み合っていない――その事実を知っていた僕は、左右の扉を乱暴に揺すった。そして強引に力を加えると、ガタッという音と共に扉が少しだけ横に開いた。

 その瞬間、保健室の中から異様な冷気が吹き出てきた。一瞬その冷気を頬に受けた僕は、あまりの寒さに顎が震え、カチカチッと歯が鳴ってしまう。それをなんとか我慢して、僕は佐智子の手を引っ張ると、なかば強引に室内へと足を踏み入れた。
 保健室の中に入った途端、部屋に充満していた匂いが鼻につく。それは消毒液を混合させた刺激臭のようで、僕は手で鼻を覆った。
 静寂に包まれた保健室の中には淀んだ空気が満ちている。なぜか僕は、その場で吐き気をもよおした。それをこらえながら、僕は保健室の中をぐるっと見渡した。
 いくつもの薬が並べられた薬棚、壁際に立てかけられた姿見鏡、机の上に置かれている歯の模型――どれも保健室の中にはあって当然の代物ばかりだが、今晩はどれもたまらなく不気味に見えた。中でも不安を誘ったのは間仕切りとして使用されているカーテンで、その向こう側に何かがいるかもしれないと思うと、自然に心臓の鼓動が速まった。
 「……ごめんね、すぐ見つけるから」
 僕は握っていた手を離してから、佐智子にそう言った。手を離そうとした瞬間、彼女は激しく嫌がったが、素早く睡眠薬を探すためだから仕方ない。
 「――あった、これだ!」
 睡眠薬はすぐに見つかった。それは小振りな箱で、中を開けて確認すると白い錠剤が十粒ずつ入っているシートが数枚入っていた。
 やった……これでアイツを止められる! 母さんを助けてあげられる!
 僕は錠剤の入ったシートをポケットに仕舞い込んでから、あまりの嬉しさに両の拳を握りしめた。怖い思いに耐え抜き、ついに目的の物を手に入れたという達成感を感じた。そしてこの瞬間だけは、それまでに感じていた恐怖から完全に無縁でいられたのが嬉しかった。
 よし、後はここから出るだけだ。すぐに逃げないと……!
 そう思った僕は、ずっと沈黙を貫いていた佐智子の方を振り向いた。
 しかし、佐智子の表情は凍りついていた。青ざめた彼女の顔には、恐怖と驚愕の表情が張り付いている。視線はある一点に固定され、見開いた瞳には恐怖が滲んでいた。
 「さ、佐智子ちゃん……?」
 そう呼びかけても、一切反応がない。ある一点から目を離さず、まるであり得ないモノを見たような形相で硬直してしまっている。口は半開きで、言葉を失ったかのようだ。佐智子は膝を激しく痙攣させて、やがてゆっくりとその場にへたり込んでしまった。
 「あ……あぁ、あ……!」
 佐智子は、嗚咽のような声をもらしながらあとずさった。まるでこれから誰かに襲われるような彼女の姿に、僕は自分の心の中に不安が一挙に押し寄せるのを感じた。
 唾を飲み込もうとした僕だったが、口の中がすでにカラカラになっているので、それすらできないことに気がついた。目の前には佐智子しかいないのに、動悸が激しさを増していく。全身からとめどなく汗が溢れてきた。頬をつたう汗が、妙に冷たく思える。
 ウソだ……。
 僕は、佐智子が凝視している方向――つまり自分の背後から、おぞましい気配が吹き出ているのを感じていた。それはねっとりとした眼差しで凝視されているような感覚で、全身の肌が粟立つような気配だった。
 足下から凍てつく空気が次第に立ち込めていき、周囲の温度が急激に低下した。それに合わせて、全身を這うような悪寒が走り、呼吸すらままならなくなる。
 この感覚は……そんな、どうして……。
 校庭、廊下、図工室、保健室――いたるところで感じていたものが、すぐ後ろにいる。
 ――振り向いてはいけない。
 そう思うのに、僕の上半身はゆっくりと向きを変えていく。自分では止められない。まるで強制的な力で誘導されているかのように。

 振り返った先にあるのは一台の姿見鏡。その中に、それはいた。
 「あ、あぁ……ああぁ……!」
 鏡の中にうつっているのは、ガリガリに痩せた一人の少年だった。長い間、食べ物を満足にもらえなかったみたいに、骨と皮ばかりとなった少年――。彼は薄汚れた白いシャツに身を包み、なぜかスカートをはいている。そして顔や頭のあちこちから、植物のようなものがぞろぞろと生えていた。その姿は、確かにあの奇怪なウワサの中に登場する幽霊、花彦くんの姿そのものだった。
 「そんな……本当にいるなんて……」
 目の前にいる少年――花彦くんは、僕たちをじっと見つめると、ほんの少しだけ口を動かした。
 『――僕、きれい?』
 鏡の中の少年の声が、あたりに響いた。
 その声音は、少年のものにしてはまったく生命を感じさせないものだった。まるであの世から響いてくるようなうつろな響き――僕は、その底冷えするような声に支配されたかのように、ある言葉を吐き出しかけてしまう。しかし同時に、脳裏の底にこびりついていたあのウワサの詳細を、強引に引っ張りだそうとしていた。
 ――質問を肯定してはいけない。
 この一文を思いだした瞬間、僕は言いかけていた言葉を間一髪で飲み込んだ。そして、佐智子を起き上がらせて逃げようとするが……。
 「――き、きれい、だよ……?」
 唐突に、佐智子がそう言った。僕はそれを聞き、激しく動揺してしまった。
 「な、何言ってるんだよ! 死にたいの!」
 僕は佐智子に怒鳴った。そして慌てて花彦くんに違うと言おうとしたが、けれどそれはもう遅かった。花彦くんは口元に笑みを浮かべ、一歩一歩、僕らの方へと近づいて来た。
 やがて花彦くんは鏡を抜け出て、僕達の前に実体となって姿を現し、つぶやいた。
 『――じゃあ、約束の赤いのちょうだい?』

第5話に続く(3月1日更新)

★バックナンバー★

“花彦くん遭遇編”【1】
・第1話 底なしの最悪
・第2話 ナニカの気配
・第3話 ニアミス